2019年12月6日
『それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』
(マタイ伝23章1~12節 新共同訳)
以前「NHKダーウィンが来た」でハイエナのことのTVを見ました。動物のハイエナには集団の中に生まれながらの順位付けがあり、集団の中に秩序が守られた社会であると知りました。
日本の社会で江戸時代等は士農工商とか武士、農民などにほぼ生まれながらの社会の階層があった様です。現代の日本では平和と案外に自由な身分社会を思う時に、江戸時代等では自分の努力で身分を上げることが出来ず、そういう意味での自己実現も出来ない不自由な社会だともいえると感じました。
明治維新に始まり現代は江戸時代の様な封建的身分制度が壊され、どんなものも学業を修めることなどにより、自分の努力により、社会の中で誰でもがそれなりの日常生活を送れる時代になったとも感じました。
しかし生けるキリストの福音の中ではです。私の尊敬する故伝道者の集団の原文訳からです。「しかし君たちは『ラビ』と呼ばれるな、なぜなら君たちの先生は1人である、それで君たちは皆兄弟である。」(マタイ伝23章8節)とあります。
この先生とは、神を指します。私たちの先生はキリストの天の父なる神であり、そして、キリスト者は皆兄弟であると言われます。
動物のハイエナは、生まれながらの集団内の順位と秩序があるようですが、そして動物の社会として上手く生きているようですが、もしハイエナの母親が死んでしまったらその母親の子は他のハイエナの母から乳はもうもらえず死ぬ以外にないそうです。
現代の日本社会などを見て、やはり、自由な社会と感じると同時に格差が生じているとも感じました。
生けるキリスト様のまことに教えてくださった主とキリスト者の関係においてです。
マタイ伝のこの箇所の内容についてですが、また、私の尊敬する故伝道者の集団の原文訳からです。「しかし君たちは『ラビ(私の先生)』と呼ばれるな、なぜなら君たちの先生は1人である、それで君たちは皆兄弟である。そして地上において《誰をも》君たちの『父』と呼ぶな、なぜなら君たちの天上の父は1人である。また『導き手たち』とも呼ばれるな、なぜなら君たちの導き手はキリスト1人である。それで君たちのうちで最も大きな者は、君たちの下働きであれ。」(マタイ伝23章8~11節)
ここで言われているのは、イエスがラビ(私の先生)、父、導き手と呼ばれるべからずと命じ給える目的は、使徒、預言者、教師等の特有の職分及びこれに一致する名称をもつ事を禁じたのではありません。又我が国にて先生と称(とな)える様な習慣を絶つ必要もありません、父を父と呼ぶことはもちろん差しさわりありません。ただかかる呼称の結果としてそのところにキリスト者相互の関係がもっぱら兄弟姉妹の関係ではない様になり、そのところに祭司階級の様な特有なる一権力階級が出来ることを戒めたのである様です。もしもかかる階級の現れは当然の結果としてかく尊敬せらるるものの堕落を到来し宗教の職業化となり、ついに福音の枯死せしむるに至るからであります。
キリスト様の愛の教えで、神とキリスト者の間に特権なる一権力階級などをつくらず、唯一なる神とその下へキリスト者たちと何か権力の間をおかず、信者相互の関係が神の下キリストの愛の兄弟姉妹としての関係のみ親しく愛に満ちた交わりの関係を成せと主は示し、その大切さを生けるキリスト様は教えていられるのだろうと感じました。
そしてキリスト様は「それで君たちのうちで最も大きな者は、君たちの下働きであれ。」とも言われました。それは、キリスト様の言われるように、まことに、大いなるものとは、下働きする者、仕える者であります。
キリスト様は「友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ伝14章13節)と言われました。これはすぐに私たちの出来ることではないかも知れませんが、生けるキリストを信じ、主の愛の生命を頂き、地上の弱い友、悩める者に寄り添い、愛を流し、あなたたちの下働き・仕える者になることを目指して進んでいきたいと願います。
私はキリストの愛を受けて生きる現在私たちにとっての生活はかけがいのない幸福に満ちたものだと信じます。