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 | キリスト様を信じる者への主の深い愛



(聖愛の教えと主をあつく慕うこと)


2022年2月4日


  その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。


  食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


  これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
(新共同訳 ヨハネ伝21章1~8節、15~19節、24~25節)


  ありがとうございます。いつも、生けるキリスト信仰の救いサイトを読んでくださる皆様。今回でヨハネ伝全章を読み切ることになります。


  イエスが復活後に3度目に弟子たちに、ご自身を現わされたとき、ペテロたちの弟子たちは、その本来の職業に還っていました。そして、漁に出て、魚を獲ろうとしましたが何も収穫がありませんでした。


  原文訳で、『それでイエスは彼らに言う。「子らよ、何も食べ物を持っていないのか。」彼らは彼(イエス)に答えた、「ありません」。彼は彼らに言った、「舟の右側に網を投げよ。そうすれば君たちは見出す」。それで彼らが投げた。するとたくさんの魚のために、もはやそれ(網)を引き上げることが出来なかった。それで、イエスが愛していたあの弟子がペテロに言う、「主だ!」それでシモン・ペテロは「主だ」と聞いて、上着を身に巻きつけた。裸だったからである。そして海に飛び込んだ。』


  ところがイエスが現れて、その時は弟子たちはそれがイエスとは分からなかったのですが、主の言う通りに舟の右側に網を投げるとたくさんの魚のために網を引き上げられないほど収穫がありました。 イエス様は、現時点で弟子たちが魚が獲れないことにおいて主の言葉に従えばその願いがかなうことを教えようとしたのではと感じました。
主を信じ、主の言葉に従えば獲れなかった魚が逆に網を引きあがることが出来なかった位ものすごく多く魚が獲れ、主の祝福と恵みに与ることが出来ました。 私たちも自分たちでは物事がうまくいかないことも主に示され、聞いて、主の言葉に従えば、あふれるばかりに、素晴らしい恵みと祝福に与れると信じます。


  ペテロは主が十字架にかかる前に3度主を否みました。主は復活後にペテロに3度愛するかと問われました。ペテロはイエスにその懺悔の涙に許されたにしても、彼にして再び使途の首班たらしめるために新たなる召命を必要としました。
原文訳で、『イエスはシモン・ペテロに言う、「ヨハネの〈子〉シモン、これらの人たち<が愛する>にまさって私を愛しているか」。〈ペテロは〉彼に言う、「はい、主よ。私があなたを慕っていることは、あなたが識っておられます」。彼に言う、「私の小羊たちを飼え」。』
イエスはペテロに他の弟子たちにまさって私を愛しているか?と問われました。この「愛す」とはギリシャ語でアガパオー「聖愛、神の愛、信仰より出ずる愛」のことです。
それに対しペテロはフィレオー「愛している、私が慕っている」という言葉で答えました。この言葉は「(肉親が愛する愛情をもって)愛している、慕っている」という意味です。アガパオー聖愛はあまりに高く深いが、ただ人としての切なる愛をペテロはキリストに対してもっておった事は彼の断言し得る点であった事を示しております。


  ペテロは、他の弟子たちに勝って主を愛する、と答えなかったのは、イエスが十字架にかかる前に弟子たちにイエスが「あなた方は私につまずく」と言われたときに、ペテロが「もし皆があなたにつまずいても、この私は決してつまずきません」。と言いながらそれに失敗した痛みが、なお彼の心を苦しめていたからでしょう。
ペテロはアガパオーの愛で愛するとは言えず、フィレオーであなたを慕っておりますとしか言えませんでした。


   原文訳で、『さらに2度目に彼(ペテロ)に言う、「ヨハネの〈子〉シモン、私を愛しているか」。彼に言う、「はい、主よ。私があなたを慕っていることは、あなたが識っておられます」。彼〈ペテロ〉に言う。「私の羊の群を牧せよ」。』
2度目もイエスは愛をアガパオーと言う言葉で言われました。イエスは、この愛がいかに重要なる事柄なのかを深くペテロに印象し給いました。 それに対しペテロは同じく、フィレオー「私が慕っている」という言葉で答えました。


   原文訳で、『彼〈イエス〉は3度目に彼〈ペテロ〉に言う、「ヨハネの〈子〉シモン、私を慕っているのか」。彼(ペテロ)に3度目に「私を慕っているのか」と言ったので、ペテロは悲しんだ。それで彼(イエス)に言う、「主よ、あなたはすべてを識っておられます。私があなたを慕っていることは、あなたが識っておられます。[イエスは]彼に言う、「私の羊の群を飼え。アーメン、アーメン、君に言う。君が若かったときには、自分の《腰》に帯を巻いて、君が欲するところを歩き回っていた。しかし年をとると、君の両手を伸ばす。そして他の者が君の帯をしめ、君が欲しないところへ連れていくだろう」。彼(ペテロ)がどのような死によって神に栄光を帰するかを、彼(イエス)は暗示してのことを言ったのである。こう言ってから彼(ペテロ)に言う、「私に従え」。』


  3度目にイエスはペテロに愛すアガパオーではなく、ペテロが自ら用いし言葉のフィレオー、あなたは慕っているのか?で問い、ペテロは同じく、フィレオー、慕っているで答えました。この言葉がペテロを一層憂いしめました。そしてキリストの全知に訴えて自己の心の偽らざることを告白しました。


  イエスは3度も羊をやしなえと命じ給うことによりてペテロにその使命を授け給いました。3度イエスに対する愛を告白せることは3度イエスを拒みしことを打ち消すに十分でありました。
私たちキリスト者はキリストに神の愛の生命をいただいてこそ神の愛を受けることが出来ます。私たち自分には人間の肉の愛しか持たず、肉の愛では兄弟同士を愛し合うのも努力でしか出来ずに続かず、出来ないので、神の愛をいただいてこそ互いに愛し合うことが出来ると信じます。
ペテロはキリストより神の愛に生きることを教えられましたが、もちろん神の愛に生きていこうと思っていると思いましたが、人間の弱さ悪さを自覚して、キリストの愛せよとの問いかけに対して、アガパオー愛しますとは言わずに、自分の心の偽らざる言葉であるフィレオーで答えました。
キリスト様もそんなペテロのキリスト様へあつく従おうとしている姿に愛の言葉をかけられたのだと感じました。


  原文訳で、『この者が、これらのことについて証ししている弟子、またこれらのことを書いた者である。そして彼の証しが真であることを私たちは識っている。イエスの行なったことは、他にも多くある。もしそれらがひとつずつ書かれるなら、この世さえも、書かれる書物を容れることが出来ないと、私は思う。』
とあります。「これらのこと」は、全福音書を指すと見るべきだそうです。この様にヨハネが証ししているように、イエス・キリスト様の成さったことは全福音書に書かれたことだけではなく、キリスト様は他に書かれていない多くの教えや奇跡やわざを行なったとあります。
この様に、生けるキリストの福音は、私たちの知らない隠されたキリストの愛の福音の教えも他にも多くあり、また、聖書にある通り、「あなたがたすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それにより満たされるように」。(エフェソ書3章18~19節)ともある様に、神の真理の広さと奥深さと満ち溢れる豊かな愛の恵みを感じました。


  ヨハネ伝を読み終わってみて、生けるキリストの福音は、私たちが恵みの時にも苦しみと大きな困難の時にも私たちを導き、救い、守り、恵み、私たちの主キリスト様の広く、長く、高く、深い、聖霊と生命の愛で私たちを満たし、主の御心の中の私たちの願いをかなえ、恵みと祝福に満たしてくださる福音だと感じました。
主キリスト様のご愛に感謝いたします。


(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)


   





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