2020年12月3日
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
(新約聖書新共同訳 ヨハネ伝7章37~39節)
ギリシャ語原文訳で読みますと
「さて、祭りの最後の重大な日に、イエスは堅く立っていた。そして、叫んで言った、「誰でも渇いているなら、私の許に来い!そして飲め!私に信じる者は、まさに聖書が言ったように、彼の腹の中から生ける水の川が流れ出すであろう」。彼に信じる者たちがまさに受け取ろうとしていた御霊について、このことを言ったのである。それは、彼がまだ霊でなかったからであり、イエスは栄光を受けていなかったからである」。」
「彼がまだ霊でなかったからである」とはどういうことだろうか?
イエスの地上におられたときもその前もその後も聖霊が場合により降ったことはありました。イエスは父に祈り聖霊に満たされてご講話を話されました。
この箇所でいう聖霊が降るとは、ペンテコステの後の聖霊降臨の事を示しています。
ここでは、イエスが召天をして、イエス・キリストに宿ったのと同じ御霊が信じる弟子たちや僕らへペンテコステ後に降るその御霊、霊はまだその時点では降っていないと言うことをあらわしています。
ペンテコステ以前は、キリストご自身には聖霊の御霊は満ちていましたが、弟子たちや他の人たちにはイエスの御霊は宿っていませんでした。キリスト様が十字架にかかり、贖いの生命を注がれ、死して、復活され、昇天されて、神の右に座られた後、キリスト様の尊い御聖霊を地上のキリストを信じるものの上に注がれて、弟子たちや僕は、神の僕となり、キリストと同じような大きな愛のワザをなし、大伝道が、ペテロ、ヨハネ、パウロなどにより成されていきました。
聖霊の御霊は、ですので、神の独り子のキリスト様のおられるところには、いつでもありまして、ペンテコステ以前も、キリストが地上で伝道されていた時にも、ペンテコステ以後にもありました。
しかし、ペンテコステ以後に、天から主キリストの御霊ご自身が、主を信じる者の上に、伝道者、キリスト者の上にそのままその聖霊が直直に注がれるようになった上では、はじめてのことと言えるのでしょう。
キリストの聖霊は、愛の御霊でありまして、人々を幸福にし、恵みと祝福の源であります。キリストは天国にいまして、また、主を信じる私たちの内側にいまして、いつでもどんなときにもキリストを信じるものを愛し、見守り、願いをかなえて、祝福してくださります。
キリストを信じつつ、もしもの困難をも乗り越えて、感謝して、歌いつつ歩んでいきたいと願います。
(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書1」』)