2023年2月9日
『ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。』
(新共同訳 使徒言行録3章1~10節)
ギリシャ語原文訳では、「さてペテロとヨハネが第9時の祈りの時刻に、神域に上っていた。するとその母の胎内から足萎えである男が居て、背負われて来ていた。その男を《人々は》毎日、「美しい」と言われている神域の門のもとに置いていた。神域に入って行く者たちから施しを乞うために。その男は神域に入ろうとしているペテロとヨハネを見たとき、施しを受けようと求め始めた。それでペテロはヨハネと一緒に、彼に目を注いで言った、「私たちに注視せよ」。それで彼は、彼らから何かを受け取ることを期待しながら、彼らに注目していた。しかし、ペテロは言った。「銀貨や金貨は、私には無い。しかし私が持っているもの、これをあなたに与える。ナザレ人イエス・キリストの名において〔起きよ、そして〕歩け」。そして彼の右手を掴んで、彼を起こした。すると即座に彼の両足と両くるぶしは堅くされた。すると彼は躍り上がりながら立ち上がった。そして歩き始めた。そして彼らと一緒に神域の中に入って行った。歩きながら、踊り上がりながら、そして神を讃えながら。すると民衆は皆、歩き回りながら神を讃えている彼を見た。それで彼らは彼に気づき始めた。この男は神域の美しい門の所で、施しのために座っている者であった、ということを。そして彼に起こったことのゆえに、彼らは驚きと恍惚でいっぱいになった。」
です。
原文に書かれている第9時とは今の午後3時のことです。祈りは早朝と第3時と夕刻に行なわれていたという説もあるそうです。
ペンテコステを通り聖霊の生命を受け人格一変したペテロとヨハネが午後3時頃神域に上っていた時に母の胎内から足萎えである男と出会いました。
「神域に入って行く者たちから施しを乞うために。その男は神域に入ろうとしているペテロとヨハネを見たとき、施しを受けようと求め始めた。」とありますが、この足萎えの者は、施しを求めていました。この者は、施しを乞いたいという気持ちでもありましたが、自分の内に何かを求める気持ちがありました。
「それでペテロはヨハネと一緒に、彼に目を注いで言った、「私たちに注視せよ」。それで彼は、彼らから何かを受け取ることを期待しながら、彼らに注目していた。」とありますように、その時に、ペテロとヨハネは一緒に彼に目を注いで、「私たちに注視せよ」。と言いました。母の胎内から足萎えである男に対して、普通であったら奇跡は起こる可能性は低いと誰でもが感じると思いますが、聖霊の生命に満たされているペテロとヨハネはキリストの神の御栄光の姿を疑わずにこの足萎えの者に目を注ぎました。そして「私たちに注視せよ」。と言いました。
神の大きなわざが起こる時には、病める本人に、何かを求める気持ち、期待するこころが大切だと感じました。
それで彼は、彼らから何かを受け取ることを期待しながら、彼らに注目していた。」とあります。
「しかし、ペテロは言った。「銀貨や金貨は、私には無い。しかし私が持っているもの、これをあなたに与える。ナザレ人イエス・キリストの名において〔起きよ、そして〕歩け」。そして彼の右手を掴んで、彼を起こした。すると即座に彼の両足と両くるぶしは堅くされた。すると彼は躍り上がりながら立ち上がった。そして歩き始めた。」とあります。
母の胎内からの足萎えだった彼は、何か施しをもらえると期待して、ペテロとヨハネに注目しましたが、ペテロは「銀貨や金貨は、私には無い。しかし私が持っているもの、これをあなたに与える。ナザレ人イエス・キリストの名において〔起きよ、そして〕歩け」。と言い、その足萎えに、金銀でなく、足萎えの真の願いであろう足萎えの癒しの本願に対して、「ナザレ人イエス・キリストの名において〔起きよ、そして〕歩け」とキリストの御名によりて、一言発しました。
この世では普通はお金や財産が高い価値のあるものだと多くの人は感じると思います。しかし、お金以上の価値があり、人を幸せと恵みに導くものは、キリストの尊き御名の力だと感じました。
この足萎えの者は、人生で生まれてから一回も体験していなかった、自分の足が癒されて歩くことが出来るようになったキリストの神様の恵みを体験しました。
「すると彼は(中略)歩きながら、踊り上がりながら、そして神を讃えながら。」とありますが、
「躍り上がりながら立ち上がり、歩きながら、躍り上がりながら、そして神を讃えながら」と、自分に起こった神の驚くべき奇跡と恵みにどんなに驚き、嬉しさと感謝で神を讃えたのだろうと感じました。
私も以前自分が弱かった時に、人生の挫折寸前であったときに、生けるキリストに出会い、キリストにすがり、期待し、求めて、キリストの御名によりて、祈り、主に願い求めました。すると弱き体が元気になり、取りたい資格取得や大学卒業などいろいろな願いが奇跡の様にしてかない、恵まれました。
主キリストを信じ、主に期待して求め祈ることは私たちにとっての最大の恵みだと感じました。主キリスト様に感謝が尽きません。
「すると民衆は皆、歩き回りながら神を讃えている彼を見た。それで彼らは彼に気づき始めた。この男は神域の美しい門の所で、施しのために座っている者であった、ということを。そして彼に起こったことのゆえに、彼らは驚きと恍惚でいっぱいになった。」
とありますように、この足萎えの者のみでなく、まわりにいた民衆もこの神の奇跡に対して驚きと恍惚でいっぱいになりました。
ペンテコステで聖霊の生命の注がれたペテロとヨハネ、弟子たちは、キリストの御名により祈り、伝道をしていきました。
使徒言行録のこれからの部分を読むと弟子たちは、今後大きなキリストの神の愛と救いの業を主の僕として成していきます。
私たちキリスト者は、キリストを信じ、聖霊の生命を祈り求め、主に神の国と神のご性質を求めて、主の愛の生命を主の恵みにより与えられます。
そして我が願いも主の御名により祈り主の御心にかなうものは主がかなえてくださいます。
キリストの御名によりて、神の御心が成ることを祈り、主を信じて、主の恵みに感謝して歩んでいくことが大切だと感じました。
主キリストの恵みと祝福が訪れますようお祈りいたします。
(参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキスト使徒行伝1(改訂版))