2023年6月15日
『このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。
『イスラエルの家よ、お前たちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え物を献げたことがあったか。お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる。』わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
』
(新共同訳 使徒言行録7章37~60節)
ギリシャ語原文訳で
『そして40年が満ちたとき、シナイ山の荒野の中で、柴の火の炎の中で天使が彼に現れた。それでモーセはその光景を見て驚き怪しんでいた。それで彼が見極めようとして近寄って来るときに、主の声が起こった。『私はあなたの父祖たちの神、アブラハムとイサクとヤクブの神である』。それでモーセは恐れおののいて、見極める勇気がなかった。主は彼に言った。『あなたの足の履物を脱げ。なぜならあなたが立っている場所は、聖なる地であるから。私はエジプトにいる私の民の虐待をしかと見届けた。そして彼らの呻きを聞いた。それで彼らを取り出すために、私は下って来た。それで、さあ今、私はあなたをエジプトに遣わそう』。
とあります。
主なる神は、モーセに「履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。」と言われました。
その様に、私たちは主なるキリストの神を信じて、その面前に主の臨在のあるところは、どこにあってもそこは主の中にある聖なる土地、聖なる場所だと感じました。
ギリシャ語訳原文で
『その彼に私たちの父祖たちは、従順になることを欲しなかった。そうではなくて突き飛ばした。そして自分たちの心の中でエジプトに振り向いた。アロンに《こう》言って、『私たちのために、私たちに先立って進む神々を造れ。なぜならこのモーセは、彼はエジプトの地から私たちを導き出したが、彼に何が起こったか私たちは識らない』。そして彼らはそれらの日々に、子牛の像を造った。そして偶像に犠牲を献げた。そして自分たちの手の作品の中で興じていた。それで神は顔をそむけた。そして彼らを天の軍勢(天体)を礼拝するように引き渡した。預言者たちの書に書かれている通りに。『荒野の中での40年間、あなたたちは屠った動物の供え物と生け贄とを、私に献げなかったではないか、イスラエルの家よ。そしてあなたたちはモロクの幕屋と[あなたたちの]神ロンパの星を取り上げた。それらを礼拝するために、あなたたちが造った型を。そして私はあなたたちをバビロンの向こうに移住させよう』。とあります。
主なる神の導きの中で、モーセが民を愛してひきいている中で、民衆は、ある場面で不安などになると、偶像礼拝をして、神を離れて、信仰を離れてしまい、そのために、民衆に不幸が襲いかかりました。
イスラエルの歴史を学ぶと、民衆は、神に従い、恵まれ、しかし、神を忘れ、偶像礼拝に落ち入り、神を離れ、不遇な時代を迎えます。しかし、また神に立ち返り、その繰り返しの歴史であったとも感じます。イスラエルの民衆だけでなく、私たちも気を付けないで主の戒めを忘れるとイスラエルの民と同じことを繰り返してしまうのだろうと感じました。
その中で主イエス様は地上に誕生し、生涯天の父なる神に従順に信仰を歩まれ私たちに見本を見せてくださいました。そしてキリスト様を信じることを通して、天の父なる神と和解して、信仰をする道を成してくださりました。
主キリスト様を信じる恵みの大きさに感謝をいたします。
ギリシャ語訳原文で『証しの幕屋は、私たちの父祖たちのために荒野の中にあった。ちょうどモーセに語る者が命じたように、彼(モーセ)が見てきた型に従ってそれ(幕屋)を造るようにと。そしてそれ(幕屋)を私たちの父祖たちは次々に受け継いで、ヨシュアとともに異邦人たちの占領地に運び込んだ。《その異邦人たちを》神は私たちの父祖たちの面前から外に追い出した、ダビデの時代までに。彼(ダビデ)は、神の前で恵みを見い出した。そしてヤコブの家のために丈夫な幕屋を得ることを求めた。しかしソロモンは彼(神)のために家を建てた。しかし至高者は手で造られたものの中に定住しない、預言者が言っているように。『天は私のための玉座、また地は私の足の足台《である》。どのような家をあなたたちは私のために建てようとするのか。主は言っている。それとも私の安息の場所とは何か。私の手がこれらすべてを造ったではないか』。とあります。
神殿で神様を拝むことを否定するのではありませんが、聖書の言葉の、この「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」と言われるように、人の造った建物の中には神様は、住まわないのです。イエスキリストの体こそが神の宮であり神の住まいであります。私たちは、主イエス・キリストご自身を信じ、祈り、主を仰ぎ、主ご自身から神の愛の生命を頂く歩みが大切だと信じます。
ギリシャ語訳原文で『うなじの硬い者たちよ。心と耳に割礼の無い者たちよ。お前たちはいつも、この聖霊に衝突している。お前たちの父祖たちのように、お前たちもまた《そうだ》。預言者たちのうちの誰をお前たちの父祖たちは迫害しなかったか。そして彼らは義人の到来について前もって告げた者たちを殺した。その《義人》の、今やお前たちは裏切り者たち、また殺害者たちと成った。天使たちの命令による律法を受け取ったお前たちは、誰も守らなかった」。』
ここでステファノは民衆に対して熱情が爆発しました。あつくイエスキリストがメシアだということを指し示したかったのだと思います。
また、ステパノの弁論でイスラエルの長い歴史についての要約と分かりやすい内容のすごさを感じました。
ギリシャ語訳原文で『それで彼らはこれらのことを聞きながら、自分たちの心において激怒していた。そして彼(ステファノ)に対して歯軋りしていた。しかし彼(ステファノ)は聖霊に満たされていて、天に目を注ぎ、神の栄光と神の右に立っているイエスを見た。そして彼は言った、「見よ、私は観ている。開かれている天と神の右に立っている人の子を」。それで彼らは大きな声で叫びながら、自分たちの両耳を押さえてふさいだ。そして同じ熱情を持って彼に殺到した。そして町の外に追い出して、投石し始めた。そして証人たちは自分たちの上衣を脱ぎ捨てた。サウロと呼ばれている若者の足元に。そして、叫び求めて《こう》言い続けるステパノに投石していた。「主イエスよ、私の霊を受け入れてください」。それで両膝をついて、彼は大きな声で叫んだ、「主よ、この罪を彼らに置かないでください」。そしてこのことを言って、彼は眠った。』とあります。
弁論などでは、人々に激しく、指摘などする場合、人は聞く耳を持てず反発することが多い場合もあると感じます。
強く指摘をされると悪い感情で非難されているのではと思い込んでしまうことのあることを自分でも感じますが、そういう場合ばかりではないのだとも感じました。
しかし、このステパノの弁論の場合は、そのまことを分からないユダヤ人たちに真実の信仰、イエス・キリストはメシアであるという事に対して、まことの愛をこめて、生命をかけて説き、愛しています。相手を指摘していることにも、相手を深い愛で愛して説いているのです。
人から指摘されるときにも、相手から恨まれて、否定されて指摘されるような場合と、キリスト者から相手を深く愛して指摘される様な場合などがありますので、指摘をする相手とその心を理解して、相手からの私たちを愛しての指摘に対しては、私たちが耳を傾けて聴く姿勢と相手への感謝が大切だと感じました。
召天する前のステファノの「主イエスよ、私の霊を受け入れてください」と「主よ、この罪を彼らに置かないでください」とイエス・キリスト様の主の贖いの御血潮による人々の罪を赦し神と和解させる贖いの十字架の血のよる赦しの業と少し似た様な罪の赦しの言葉を述べたことは、ステファノの信仰の深さのあらわれだと感じました。
自分を石打ちする敵に対して、イエスの言われた「敵を愛し迫害する者のために祈れ」の言葉通りに、自分を殺そうとする敵をキリストの愛の福音を伝えるために愛し、迫害する者のために主キリストにとりなしの祈りをしました。
これはステファノが殺そうとする敵に対して、キリストを信じるかもしれない兄弟として愛の生命を主から頂き自分を犠牲にして、敵を愛した事実であり、召天前にイエスと同じように近く出来たのはイエスの愛に近づいていたからではと感じました。
このステファノの姿がサウロのちのパウロの誕生にも大きな意味を持ったのだと感じました。
主キリストの愛に生きたステパノに対するその殉教のまわりの人々への影響の大きさをも感じました。
キリスト者に主の恵みがあることを祈ります。
(参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキスト使徒行伝1(改訂版))