2024年11月06日
『パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
』
(新共同訳 使徒言行録20章17~38節)
ギリシャ語原文訳で
『それでミレトからエペソへ《人を》送って、エクレシアの長老たちを彼は呼び寄せた。』とありますが、ミレトスよりエフェソまで約48kmあり、 かかる遠距離を呼び寄せたのは、敵のためにパウロが志したエルサレム行のもしもを考えて妨げられるのを憂えて、また、それを防ぐためでもありました。パウロがいろいろと困難を抱えてそれを対策していたことを感じます。
ギリシャ語原文訳で
『さて彼(パウロ)の所に彼らがやって来たときに、彼らに言った。「あなたたち自身がよく知っている、アジアへ私が足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにして私があなたたちと共に居たかを。《すなわち》全き卑賎と涙とユダヤ人たちの《数々の》陰謀の中で私に降りかかった《数々の》試練と共に、主に奴隷として仕えて《いた》、公衆の前でもまた家々においても、有益であることの1つをもあなたたちに報告しなかったり、またあなたたちに教えなかったりするような尻込みを私はしなかったことを《あなたたちはよく知っている》。ユダヤ人たちにも、またギリシャ人たちにも神への回心、すなわち私たちの主イエスへの信仰を力強く証ししながら《尻込みしなかった》。』とあります。
パウロは、エフェソで涙を流しながらユダヤ人の数々の陰謀で身にふりかかった試練にも負けずに主にお仕えしてきました。パウロの伝道旅行において、死にそうになる危険をとおり、あらゆる迫害を受けてもキリストを証しして、キリストの神のまことの福音を恐れずに説き続けたパウロは素晴らしいと感じました。
ギリシャ語原文訳で
『そして今や見よ、御霊に縛られたままのこの私はエルサレムへ行く、その中で私を出迎えるものを識らないままで、あの聖霊が町ごとに、『鎖と艱難が私を待っている』と私に言って、はっきりと証ししていること以外は。しかし私自身にとって《自分の》命が一つの言葉にも値しないと見なしている、私の走りと主イエスから受けた奉仕を全うすること、また神の恵みの福音をはっきりと証しすることのためには。そして今や見よ、この私は識っている、御国を宣べ伝えながらあなたたちの間で巡り歩いた私の顔をあなたたち皆が二度と見ないことを。』とあります。
パウロは今度のエルサレム行において霊に促されてエルサレムに行き、エフェソの信徒の人々とはもう二度と私の顔を見ないと分かっているといい、自分の生命は断たれ、死を覚悟で行くことを自分で感じながら決心をしておりました。自分の利の為ではなく、キリストの福音にとって自分の生命よりも大切と感じていた福音伝道における気持ちの大きさに驚かされました。
ギリシャ語原文訳で
『このゆえに今日の日にあなたたちに私は証しする、すべての者たちの血から私は潔白である、と。なぜなら神の御旨のすべてをあなたたちに報告しないというような尻込みを私はしなかった。』とあります。
パウロが、ユダヤ人や異邦人にもキリストのまことの信仰の救いの福音を命がけで宣べ伝えました。キリストを信じる者はまことにキリストの神に救われ、しかし、キリストを信じない不信仰な人々は滅びることを伝えました。
キリストの神は信じる者には大きな恵みを与え願いをかなえて祝福を与えますが、信じない者には恵みを与えるすべもないのだと感じました。
ギリシャ語原文訳で
『あなたたち自身に、また群れのすべてに警戒し続けよ。その(群れの)中であの聖霊があなたたちを監督者として立てたのである、《神が》ご自分の血を通して確保した神のエクレシアを牧するために。私自身は識っている、私の《この》到着の後に狂暴な狼たちが群れを容赦しないであなたたちの中へ入って来ることを、またあなたたち自身の中からも、自分たちの後ろへと弟子たちを引き離そうとして、捻じ曲げられた」ことを語る男たちが立ち上がることを《私自身は識っている》。』とあります。
パウロがともにいたうちは神の聖霊の生命を流して、エフェソの信徒たちの困難を対処して守りました。しかし、パウロがいなくなると偽預言者や反キリスト者が暴れだし教会の中にも困難が来ることをパウロは預言をしました。どこの社会でも、まことの福音に対しての反対者や迫害者はいるものだと思います。
ギリシャ語原文訳で
『このゆえにあなたたちは目を覚ましておれ、3年の間夜も昼も涙と共に一人ひとりを諭すことを私が止めなかったことを思い出しながら。そして今やあなたたちを神とその恵みの言(ロゴス)に私は委ねる、築き上げ、また聖別された者たちすべての中で嗣業を与えることができる《言に》。』とあります。
パウロは、エフェソのキリストの信徒に、そんないろいろな困難に対して、3年間キリストのまことの福音を伝えてその教えと共に生きることを勧めました。生けるキリストの真の福音はキリストを信じる者に力と恵みと祈り願いをかなえることを与えますと、主なる神は信じるものを救うことを教えました。
ギリシャ語原文訳で
『銀貨や金貨や衣服をひとつも私は欲しがらなかった。あなたたち自身は知っている、私の必要のために、また私と共に居る者たちのために、これら両手が下働きしたことを。すべてのことをあなたたちに私は示した、すなわち病んでいる人たちをこのように苦労して引き受けねばならないこと、また主イエスの言葉を覚えていなければならないことを。すなわち彼自身が言った、『受けることより与えることが、はるかに幸いである』』とあります。
パウロは、伝道をするときに、生きるためのお金を普通エクレシアなどに求めることはしませんでした。もちろんどうしても神の福音に必要な時には献金も受けました。しかし、自分で自分の生きるお金は働き稼ぎ、そして伝道をしました。その形がパウロにとってとても理に適う形と感じ、他の人にも勧めました。伝道をする時に自分の生活の糧のことなどは自分で働き稼ぎながら、そしてその上で伝道を聖霊に満たされて精一杯するとは何と素晴らしいのではと感じました。
ギリシャ語原文訳で
『そしてこれらのことを言って跪き、彼ら皆と一緒に祈った。それで皆の者たちの激しい慟哭が起こった。そしてパウロの首に抱きついて、彼に熱烈に接吻していた。特に彼(パウロ)が言った言葉ーー彼らは二度と自分の顔を観ることはないーーのゆえに苦悩しながら。それで彼を船まで見送って行った。』とあります。
パウロとエフェソの長老たちとの関係について、尊敬とあつい情熱と感謝を持つ間柄を見てその別れに際して、非常に悲しみ、激しく泣き、首に抱いて心からの接吻をしたという箇所を読んで、今においても、伝道者と信徒、あるいは、指導者としもべとしての間にあって、これは、尊いなくてはならない愛の関係だと感じました。
この個所を読んで、キリストの教えのエクレシアの中の伝道者と信徒としても、親と子供にしても、教師と弟子にしても同じと感じますが、その共に過ごした日時において、神の聖霊の愛を受けつつまことの福音を伝えることにおいて、また、神の愛が流れる関係において、その同じ時間を通り過ごした者同士は、神のまことの愛の流れる中で、共通の神の聖霊の愛と生命、深い信頼関係、尊敬と感謝が生まれるものなのだと感じました。
あなたにキリストの愛が注がれることをお祈りいたします。
(参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキスト使徒行伝3(改訂版))