2023年7月20日
『サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。
』
(新共同訳 使徒言行録8章1~25節)
ギリシャ語原文訳で
『さてサウロは、彼(ステファノ)の殺害に全く同意していた。それでその日のうちに、エルサレムにあるエクレシアの上に大きな迫害が起こった。それで皆はユダヤ及びサマリアの地方に散らされた、使徒たち以外は。』とあります。
サウロは、ステファノの殺害にも同意し、エルサレムのエクレシアは迫害されました。
サウロは後に神の召命によりキリストの大伝道者パウロになる人ですが、現時点では、このようにキリスト者を迫害しました。
『昨日の敵は今日の友』という言葉がありますが、神の業の不思議を感じさせられました。
ギリシャ語訳原文で
『しかし敬虔な男たちは、ステファノを一緒に運んだ。そして彼のために大いに《胸を》打ち叩いた。さて、サウロはエクレシアを荒らしていた。家々に入って行って、男たちも女たちも引きずって行って、牢獄に引き渡していた。それで一方では、散らされた人たちが言(ロゴス)を福音しながら巡り歩いた。』
ステファノ殺害からエルサレム教会の迫害がひどくなりました。
しかし、敬虔な男たちは、身の危険も気にせずにステファノを愛して葬りました。
そして、『彼のために大いに《胸を》打ち叩いた。』とあり、ステファノを慕い、悲しみました。
エルサレム教会の迫害でキリスト信徒たちは他の地方へちりじりになりました。しかし、『それで一方では、散らされた人たちが言(ロゴス)を福音しながら巡り歩いた。』とあるように、それが福音を拡大することへとプラスに働くこととなりました。最悪の中にも最善があると思わされました。
原文訳で、『彼(ピリポ)が行なっていた徴を彼らが聞くことと視ることにおいて。というのは、大きな声で叫ぶ汚れた霊どもを持っている多くの者たちが出て来ていた。また、多くの中風を患っている者たちや足萎えたちが癒された。それでその町の中に大きな喜びが起こった。さてシモンという名のある男が街の中で魔術を行ない、そしてサマリアの民族を非常に驚かせながら以前から居た。自分自身が何か大いなるものである、と言いながら。その彼に小さい者から大きい者まですべての者達が注目していた。《こう》言いながら。「この者は偉大な《力》と呼ばれている神の力である」。それでかなりの期間、彼らは彼(シモン)に注目していた。魔術によって彼らを非常に驚かせていたので。しかし彼らは、神の国とイエス・キリストの御名について福音しているフィリポに信じたときに、男たちも女たちもバプテスマされていた。それでシモン自身も信じた。そしてバプテスマされてひたすらピリポに従っていた。彼は起こっている大きな徴と力強い業を観ていたので、魂消ていた。
それでエルサレムにいる使徒たちは、サマリアが神の言(ロゴス)を受け入れてしまったということを聞いたので、彼らのところにペテロとヨハネを遣わした。彼ら(ペテロとヨハネ)は下って行き、聖霊を受けるように、彼らのために祈った。というのは、それ(聖霊)は彼らの中の誰の上にも、まだ降ったことがなかったからである。ただ彼らは主イエスの御名の中へとバプテスマされていただけであった。それから彼ら(ペテロとヨハネ)は彼らの上に手を按いた。すると彼らは聖霊を受け取っていた。それでシモンは、使徒たちの按手を通して霊が与えられているのを見たので、彼らにお金を差し出した。《こう》言いながら、「私にもこの権威を与えよ。私が手を置くなら、その者が聖霊を受けるように」。しかしペテロは彼に向かって言った。お前の銀貨はお前と一緒に滅びとなれ。神の賜物を金によって獲得しようとお前は思ったからだ。お前にはこの言(ロゴス)の中に、分け前も相続もない。なぜならお前の心は神の前に真っ直ぐでないからだ。だからお前は回心せよ、お前のこの悪から。そして主に祈願せよ。お前の心の思いつきが、お前に許されるかどうか。なぜなら、苦い胆汁と不義の縄目の中にあるお前を、私は見ているからだ」。それでシモンは答えて言った、「あなたたちこそが私のために、主に向かって祈願せよ。あなたたちがすでに言ったことのひとつも私の上に臨まないように」。こうして一方では、彼らは力強く証ししながら、また主の言(ロゴス)を語りながらエルサレムに戻って行った。またサマリア人たちの多くの村々に福音し続けていた。』
『それでエルサレムにいる使徒たちは、サマリアが神の言(ロゴス)を受け入れてしまったということを聞いたので、彼らのところにペテロとヨハネを遣わした。』とありますが、ユダヤ人とサマリヤ人は余り交われない関係にあるとのことですが、ペテロとヨハネが伝道に行きキリストの福音がサマリア地方にも伝わりました。
魔術師シモンも洗礼を受けましたが、シモンは、フィリポを見て、そのしるしや奇跡が起きる力に魅力を感じましたが、主イエスキリストをまことに信じる信仰には欠けていたと感じます。
ペテロとヨハネは、ペンテコステの日にキリストの聖霊を受けました。ここに『彼ら(ペテロとヨハネ)は下って行き、聖霊を受けるように、彼らのために祈った。というのは、それ(聖霊)は彼らの中の誰の上にも、まだ降ったことがなかったからである。ただ彼らは主イエスの御名の中へとバプテスマされているだけであった。』とありますが、キリストの福音は、聖霊を受けることが大切だと学べます。
『それから彼ら(ペテロとヨハネ)は彼らの上に手を按いた。すると彼らは聖霊を受け取っていた。』
そして彼らの上に手を置いて按手をすると彼らは聖霊を受け取りました。
『それから彼ら(ペテロとヨハネ)は彼らの上に手を按いた。すると彼らは聖霊を受け取っていた。それでシモンは、使徒たちの按手を通して霊が与えられているのを見たので、彼らにお金を差し出した。《こう》言いながら、「私にもこの権威を与えよ。私が手を置くなら、その者が聖霊を受けるように」。』
シモンは神の力をお金で買えると考えておりました。この世では、お金さえあれば何でもできると思う人々がいます。しかし、神の力、聖霊の愛と、この世のものの金は相容れないものだと信じます。
キリスト様も「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6章24節)と言われております。お金ですべてが得られると思う世の中の人もいるようですが、神の聖霊と愛は、キリストを信じるものへの主からの恵みであり、お金をいくら積んでも、神の力と祝福、恵みは得られないものだと信じます。
キリストの信仰と聖霊と愛は主キリストからのキリスト者への恵みの賜物であり、この世の中で一番尊い宝であると信じます。
キリスト様は「それで第一に、[神の]王国(神の支配)と彼(神)の義(神の御性質)を求め続けよ、そうすればこれらのもの(何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか)はすべて君たちに増し加えられる」(この個所の括弧は詳細説明 マタイ伝6章33節)と言われております。
私も日常の信仰生活で体験をいたしましたが、第一にキリストの神様のご支配とキリストのご性質を求めれば日常の糧も増し加えられると感じました。お金を増やせば何でもできるというのではなく、主の中においての順番が違い、まず神の支配と神の御性質を求めれば、主なる神様により、第二のものとして日常の糧も与えられるということです。
キリストを第一に信じることを通して日常の糧も恵まれると信じます。
そして主に聖霊の生命の恵みを求めるときに、自分を主体として神を使うようにして祈るのではなく、神主体において神の御心を願い生命を求める祈りが大切です。これは、同じ祈りの様でありながら、全く違うものだと最近学びました。私たちは神主体において神の御心を願い求め祈り、聖霊における愛の生命をいただくことが大切だと信じます。
主の恵みのあることをお祈りいたします。
(参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキスト使徒行伝1(改訂版):原文訳の言葉は、原文に出来るだけ忠実な訳の言葉が使用されております。)