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 | 神と兄弟を心から愛するものの喜び



(信仰の戦いで神が愛するものを守る導き)


2026年2月11日


  『フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った。 祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。』
(新共同訳 使徒言行録25章1~12節)


  『祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。』


  ユダヤ人の社会では現代の一般社会とは違い、敵対するものをいとも簡単に殺そうと考えていたことを知ります。姦淫罪などの石打の刑、ステパノの殉教の石打の刑など、十戒で神様が殺してはいけないと示した戒めを人々の行いが悪いためにしょうがなく別に解釈をしたのではとも感じました。
『主キリスト様は金持ちの青年に「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」』(マタイによる福音書19章16~19節)主イエス様は、殺してはいけないということと、「隣人を自分のように愛しなさい。」と人と敵対することや人を殺すことではなく、愛することを説きました。
主なる愛の神がまことを示すことと、ユダヤ教徒が考えることとに食い違いがあるのではと感じました。
現代社会でも、ある国が戦争で他国を侵略したり領土を奪ったり人を殺すことが当たり前のように行われていることを見ると、生けるキリストのまことの福音に再度立ち返り私たちは悔い改めて立ち返る必要性を強く感じました。


  『パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。』


  裁判の場でユダヤ人たちはパウロに対して重い罪状を言い立てたがそれを立証することは出来なかったとあります。ユダヤ人たちは預言者たちにより預言されたメシアのキリストの宗教を説くパウロに、ユダヤの地に待ちに待ったメシアであるキリストの誕生を受け入れられずにイエスにもパウロにも反感を持っていました。
パウロをユダヤ人が裁判で訴えたのは自分のユダヤ教の宗教としてキリストの福音が受け入れられないのでそれを排除しようとして訴えた様です。パウロは悪いことは何一つしていないのでした。それで訴えた重い罪状を立証することは出来ませんでした。


  「しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」
フェストゥスは、ユダヤ人にも反感を持たれないため、ユダヤ人の願い出た「エルサレムへ上るか」とパウロに問いました。それはパウロにもそれを受けるか拒否するかの機会を与えてパウロの為にもなる問をした様です。


  ギリシャ語原文訳で
『しかしパウロは言った。「カイザルの裁きの座の前に私は立っています、そこで私は裁判を受けるべきです。ユダヤ人たちに何一つ悪いことを私はしませんでした、あなた自身も詳しくご存じのように。だから一方、もし私が悪を行っていたり、また死に値する何かを行ってきたなら、死ぬことを私は拒みません。他方、もしこれらの者たちが私を訴えていることの一つも存在しないなら、だれも私を彼らに引き渡すことはできない。カイザルに私は上訴します」そのときフェストは評議会と共に相談して答えた。「カイザルにお前は上訴した。カイザルの許に行け」。』


  パウロはもしユダヤ人の願うエルサレムへ裁判に行くと、それはパウロを死刑にする裁判になることを分かっていました。
パウロはエルサレムで裁かれて殺されるか、又は、カイザリヤに留まりて何時までも従来の如くに留置されるか、又は、カイザルに上訴してロマに行くかどれか一つの方法を選ばざるを得ざる立場に立たしめられました。ロマ行きは彼が年来の切願でもあり、主イエスのあかしによりてさらに確かめられているのでパウロは神の御旨が成就したのであると信じたのだと感じます。
カイザルに上訴してロマの兵卒に護衛せられてロマに行くことはユダヤ人の襲撃をまぬがれる手段として最も有効な手段でもありました。 そのためにパウロはカイザルに上訴を決するに至ったのでしょう。


  パウロはいろいろな時に自分のもしもの場合の死をも恐れずに、それよりもキリストの愛の福音が成ることを優先して歩みました。そしてキリストの言われた最も重要な掟である『「あなたの神である主を愛せよ、あなたの心全体で、あなたの命全体で、あなたの洞察力の全体で」と「あなたの隣人をあなた自身として愛せよ」』(マタイによる福音書22章37,39節 ギリシャ語原文訳)の言葉のように自分の生命をかけて我が神と我が隣人を誠心誠意をもって愛しました。
私たちもキリストの神に祈り、聖霊の生命の愛を頂き、パウロに倣い、主なる神やキリストの兄弟をあつく魂から愛していきたいと願います。



  神に祈り、主の愛の生命が来たり、私たちの上に主のお役に立てる喜びが与えられますように祈ります。


  (参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキスト使徒行伝3(改訂版))


   





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